昭和44年07月13日 朝の御理解
御理解 45節
「世に、三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、三宝様は実るほどかがむ。人間は、身代ができたり、先生と言われるようになると、頭をさげることを忘れる。神信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。とかく、出る釘は打たれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思おうけれど、大声で叱ったり手を振りあげたりすることはないが、油断をすな。慢心が出ると、おかげを取りはずすぞ。」
もうこの45節、色々三宝様の三宝様を踏むととこう仰る。この三宝様という事のいわば解釈と言うかね。また三宝様を踏むと目が潰れるという事の解釈と。せっかく心の芽が開きかかっておる者がまた潰れてしまうと。人間は身代が出けたり先生と言われるようになると、段々頭を下げる事を忘れると。まぁそういう意味においては、まぁ様々に頂いて参りましたですね。天は高いから頭を打つ事はあるまいと思うけれど、とこういうところをですね。私くしはあのう今日は。
天は高いから頭を打つ事はあるまいと思うけれどと、いうところを大地ね。大地は一切の物を黙って受けて下さる。しかもそれして与えて下さる。それが大地だという風にまぁ頂いておる訳ですけれどもですね。だからそう言う様に例えば寛大である。だから寛大であるから私はあのなめてかかってはいけない。寛大であるからいいかげんで良いという事はない。寛大だからね転ぶ事はあるまいと思うけれども、やはり足を滑らせて転んだり、何かにつまづいて転んだりする。
今日私は天で頭を打つ事というのをまぁ反対にやはりね。いかにお父さんが厳しいからお父さんには頭が上がらんのだけれど、お母さんは甘いからねお母さんにはいくら甘えても良いと言う様な事ではいけんのぞと。そういう所を今日は一つ頂いて頂きたいと思うですね。だからここの45節にはない訳ですけれども、天は高いからと言うね大地はいわば寛大だからとそこ辺をそういう風に頂いた。そこにも私は三宝様がある、そこにもやはりいわば足で蹴散らかしておるような事が、沢山あるという事なんですよね。
これは昔の先生方が言われましたですね。お道の教師にならせて頂いて、信者にお話を聞かせる。はぁもうあちらの先生のお話はいいと、信者はもう本当に随喜の涙をこぼして頂く。ところがそのう家族の者家庭の者は頂かない。あぁまたお父さんがあの話をしござる。あぁ口じゃあげん言いござるばってん、お父さん自身もいっちょん出けておんなさらんち、家族の者は知ってる訳、裏の裏を知ってる訳です。ですから例えばですね。お道の先生が家族の者に御理解を頂かせれるようになったら。
教師として一人前だと言われております。そういう意味で私共はもう本当に相済まん事だと思うんですよ、自分ながら聞かせきらん。第一家内に聞かせきらん子供に聞かせきらん。どうして頂かんのかという前に、私が頂かせきらん私という事をですね、やはり恥じ入らなければならんし、また改まらなければならないと思うですね。ならだからこれは教会とか教師とかという事じゃないですよね。ならお互いの家庭の事においてもそうです。家のお父さんは、家のお母さんは信心しよんなさるけんやっぱり違うんだと。
お父さんの言う通りしときゃいい、とにかくお母さんに付いて行けと、例えば言う様にです。もしないとするならねやっぱり同じ事が言えるんだと思うです。私の方は私自身の場合なんかは、もうこれはもう昔からそうでした。母、母両親です。親はもう私の話を芯から頂いてくれました。そして本当に何時とはなしにやはり素晴らしゅう変わって行くのを私は感じます。ところが家内子供に頂かせきらん。なるほど形においては頂きよりますよねここの人達は。
けれども頂きよるけれども、頂きよるほどしに変わって行かんということ。もう実際としては本当にですね、こうやって一生懸命お話をして人が居眠りかぶりをしておってもです。例えば私共の母がいつも本当こう合点しながら聞いてくれとるのを見るとですね、もう母が一人聞いてくれればいいと。私昔からそんなに思いよりましたお話をする時に。父がいちいち合点して聞いてくれ、または涙して聞いてくれておると、もう父が聞いてくれとれば、もうそれでいいそんな気がするんです。
とりわけだから嬉しいのは、子供が本気で御理解を頂いておる時なんかは、お礼を言いたいほどに有り難いです。家内が先生今日の御理解は有り難かったですね。有り難いと例えば言うてくれる時には、本当に家内にお礼が言いたいごとあるですよ。聞かせ得れた時に。だからいつも言うならばそうじゃなからなければならない。ですからこれは皆さんどうぞ、私と家庭というだけではなくて、皆さんと皆さんの家庭という事を思うて下さればいいと思うのです。
それがどこに原因しておるかと言うとですね、天は高いから頭を打つまいと思うけれどもという所は、段々出けて来よるけれどもです。大地は寛大だからこのくらいな事は許して下さると、言う様な事になって来るんですね。大地は寛大だからこのくらいな事は、いわば詫びれば許してやりたいのが親心と仰るから、もう詫びればそれで済むと言う様な思い方をして。そこにです例えばこれは家庭、まぁ私で言うならば親とかね、家内とか子供とかという。けどもならこれは自分の身近な人達と言うてもいいでしょう。
和賀心の角でわが身を打つという事を仰る。和賀心の角でわが身を打つと。私はやっぱりそのうそういう所がですね、まぁ角ではなくてもねおかげを頂かなければならん所だなという事を感じます。身に徳が付く程かがんで通れと仰る。それは天で頭を打つからではなくてです。いわば身に徳がつく程かがんで通れと仰るのは、自分の足元をギリギリ、見つめ見極めて行けという事だと私は思うですここでは。唯ここにも言うてある様に出る釘は打たれるから、はぁ地を低うしておこうとこう言うのではなくてです。
自分自身が転ばんようにね。足元を大事にそこで躓いてそこで滑っておる私共がですね、足元を見てない所に、そういう結果が生まれて来るんじゃないかとこう思うのですよ。天で頭を打つ事も恐ろしいけれども。やはり大地は寛大だと。もう内のもんだから。言うならば赤裸々と言うかね、もう良かとこも汚かとこも平気で出してもいいと、と言う様なそこんところに甘い考えをする。そこにまぁ極端に言うと、家庭の者から軽く見られる軽蔑される。家庭の者に対するところの思いやりが足りない。
自分が大将であるともう家の者全部は、言うなら顎の先で使うて良いごと思うとる。これはもう人事じゃない実は私自身の事を言ってるんですけれどもね。だからまぁ皆さんもそれをですたいね。自分もそういうな所がありはせんかという所を一つ思うて頂きたいと思うのですよ。なるほど長だから皆が立ててはくれておるけれども、心から立てていない心から尊敬してない、心から有り難いと思うていない。
私はもうそれ以来ずっと心に引っかかる、どうしに引っかかる事があるんですよ。もう一年ぐらい前だったでしょうか。あのテレビ室でテレビを見ておったと。あぁ子供達がまあ小さい子供達なら何ですけども、大きなっどんがあげん中をいっぱい席を取ってから見とる。まぁ私がテレビ室に行きますと、もう一番良い席をはいお父さんこちらへ来て下さいと言うてから、まぁ言うんですけれども。そん時に限ってもう知らん顔しとる訳ですね。それで私がその時その夜の御祈念の後の御理解にですね。
親を軽う見てる。私に席も譲らなかったと言った様な事を言うたんです。家族の者もその話は皆聞いた。もうそれ以来というものはもう神経を使いすぎる程、私がもうちょっとあの茶の間に入っただけでですね、もう席はサーッとこう譲って立ち上がろうとするんです。もうそれ度にまぁいらん事をあの時に、その一年前に言うた事を今でもこれに引っかかる事があるんです。自分がどがしこ偉いか。なるほど子供達がそれ依頼、それほど神経を使うてくれるようになったという事は有り難いけれども。
これはもうただ神経を使うとるだけで、心から尊敬しとるからじゃないのだと。また言われるからまた怒られるから、また皮肉う言われるからと例えば内容にそういうものはなかろうけれども、そういう物があるようにいつの場合でも感じる。もうだからよかがよかがってこの頃私が言うごとなったんです。それでもやっぱり立って私にその席を譲ってくれる訳ですけれどもね。はぁ本当にこれを言うてからでもさせるような事ではね、親を何と思うとるかと言う様な生き方ですよ。親は親を親と思うとるち。
もう本当に私そういう所をですね、あのう今日はとりわけ思うんです。同時にまた私は今日は一番大事な事をと思う事は。今日私御神前に出らせて頂きましたら、頂きます事がですね。あのう
昔の人の式服とか、もうあのう歌舞伎なんかのお芝居で見ますと、この着物の裾に綿をいっぱい入れてありますね。こう重いぐらいに入れてあるでしょうふくら。そらあ格好がいいんですね綿が入れてあると。ですから足元が重いもんですからその歩きにくい訳です。軽軽しくちょっと尻いっちょ、ひっかり上げちからやらなんちいう時なんかは、とても出来る事っちゃない。さぁというても間に合わん。そう言う様な状況を頂いてですね、私は今日はどういう御理解を頂くだろうかと思うたら、この45節なんです。
だからいわゆるその。その45節のどこを頂くのであろうかと、私は思わせて頂いて頂いたら今、天は高いから頭を打つまいと思うけれどもという所をですね。大地は寛大だからと頂きました。大地は寛大だから内々の者はよく知っておってくれるから、内々の者は私を立ててくれるから、だからそれを便乗しとるおんぶしておる。それが当たり前のように思うておる。親を軽う見て何と思うとるかと言った様な思い方が、何時も自分の心の中にある。例えば宣伝というものは自分が宣伝するのじゃない。
人が宣伝してくれなほんなもんじゃないと言われております。とりわけ私はお道の信心をさせてもらうならね、自分で自分の宣伝をするような事を、一つ往々にに慎みたいと思うですね。やはりねこのようにおかげを受けておりますとですね。どうもそれが宣伝になって来るんですね。毎日新しい方達がお参りをお導きして来ると、必ず皆さんがこうやってあのうお広前の隅々をみんな、こうまぁ見物して回られる訳ですね内外。するとまぁ以前私がまぁ暇あのう降りておる時にゃ。
自分でこう案内してここがこうこうこう言うて、その説明をする訳です。そう言う様な事がもういかにつまらん事かという事ですね。もうこの頃は全然だから私はそれを宣伝をしない事に決めた。合楽の信心はかくかくだと。本当におかげを受けた人達が、本当にここで教えを受けた人達が、そのおかげを受けた事を本当におかげを受けた事を、合楽ではこの様におかげを受けておるという事をです。神心となりて人に伝えて行くのなら、これは言うならば私が宣伝するのじゃない、人が宣伝してくれるのだけど。
私が宣伝する事はおかしい。同時に私は思うですね、私共がお詫びの信心によって、謙虚な信心という事を言われますけれどもね、私共が詫びておる事がどのような事を詫びておるかと。本当に自分の心を深くね、自分を掘り下げて掘り下げた上にもね、それこそ先日の御理解解釈じゃないですけれども、自分の心の中に愕然とするようなもの。これではおかげを受けられまいと思われるようなもの。そういうものを発見する時です。そこを改まろうと努め、そこを詫びて行くと言うのならまだいいけれどもですね。
信心のない様な者でもしない様な事。信心のない者でもそんな事は繰り返し繰り返さないような、例えば常識で分かり考えておっても分かるような事をです。私共がいつもまた失敗しましたと言うてお詫びをしておるような事なかろうか。私共のお道で言うお詫びというのはですね、本当に自分というものが本当に分かる。自分の正体が分かる。そこからです今まで気がつかなかった所に詫びて行くというところに、信心の深さが出けて来るのですよ。表面に現れておる信心のある者もない者も同んなじ。
信心の薄い者も厚い者も長年信心の稽古をしておる者も、だから当然そういう事が悪いぐらいな事は分かっておる所をです、日々繰り返しまたお粗末御無礼になって、その事を繰り返し繰り返し、お詫びをしておる様な事はなかろうか。だからそういう意味でのお詫びならですね、これは私は大変だと思うですね。いわば私が今日言う足元がいつも重い。自分の心の中にはぁ自分なこん位なこつも改まりきらん。信心のない者よりも浅ましいと例えばその思う心はです、次のおかげに飛躍して行っとらんです。
足を軽々と歩かれんそれでは。それに縛られるです。それに引っかかって転ぶです。私は特にここんところを、今日は皆さんに頂いてもらいたいと思うんです。自分をいよいよ深めて行く、そこから自分の正体が分かる。そこを詫びて行き改まろうと努めるという事なら良いけれどです。それこそ信心のなかった時もう信心のない者もです、でもそのくらいな事は悪かこつが分かっておるのにです。
それを平気で繰り返し繰り返しして、私は自分が足元の重さに足が重くて、いわば滑ったり引っかかってそこに引っかかって、転んだりしておるような事はないだろうかと。私は今朝の御心眼から、そしてこの45節を頂いて、そういう風にそこを感じたんです。それでなら自分の心の中にですね、いわゆる潜在意識ですね。自分の心の底に潜在しておる意識がです。はぁ、自分なこんくらいな事っちゃおかげ頂っきりめと思うて、ちゃんとおかげは頂きっきりよるという事になしてしまう訳です。
それにいざという時にですね、本気で神様に縋れん。私共はそこんところを本当に早く卒業したいね。例えば信心のない時ですら分かっておるような事をです、信心頂くようになって分かった、尚更分かったならです、そういう所は早う改まって。そう言う様な事が日々繰り返し繰り返し、お詫びばっかりしとりますと言うならです、そういうお詫びをしておるという事が、足元が重うなって来るのである。
足元のいわば裾に綿を入れておるようなもんである。だからお詫びをしておるとですから、えらい謙虚に見える訳ですね。格好はいい訳です。まぁあの人は本当にいつもお詫びの姿勢を取っておられると頭が低いと。けれどもそれを良くなら引っくり返して見るとですね。当然改まなければならない事を改まる。悪い事を気で知っておりながら平気でやっておる。そしてその事を詫びておるような事ではですね、いわゆるいよいよの時にいや足軽々と進んで行かれん。それに引っかかっとるいつも。
そこんところが私は大地は寛大だから、神様はこのくらいな事は見逃して下さると言ったような、いわば甘い考えがお互いの心の中にあるのじゃなかろうかとこう思うのです。お母さんはただなでなでなすりしてくれるだけ。お父さんは恐いけれども、お母さんは甘く見ておる。そこにです例えばお母さんが死んでから、まちった孝行しときゃ良かったと言った様な事になってしまう訳です。それがいつも引っかかっている訳ですね。母親をお粗末にしておったこと。
信心の上においてもそれが言える。いかにもお詫びをしておれば、それはねお詫びの信心と言われるのですから、それは格好は良いけれどもです、そのお詫びがですねもう本当に自分を掘り下げてからの、意味合いにおいてのお詫びではなくて表面に出来おるようなもの。そういう所を私は人に軽う見られるんじゃなかろうか、家族の者に軽う見られるのじゃなかろうか。いわば家内やら子供にですら、軽く見られるような事ではなかろうかという風に思うのです。
そこの辺のところを一つ信心させて頂いとりゃ、もう当然の事としてです。そこをスッキリ改まらせて頂くというおかげ。そこに私はいつも自分の足元というものを見てです、おかげを受けて行かなければならんという風に思いますね。今日は天は高いからね頭を打つ事はあるまいと思うけれどもと、慢心を戒めておられますがですね。大地は寛大だから、このくらいな事は許して下さるじゃろうと。もうこんくらいな事はもう人間じゃけん当たり前と言ったような甘い、例えば大地を見くびった考え方。
そういう考え方から一歩前進させてもろうてですね、おかげを受けて行けれるようになったら、まぁ言うなら先生で言うなら家族の者にも、いわばなるほどと合点が行かせられる。話を聞かせる事が出来る。お父さんを大事にしなきゃいけんぞと、お父さんを何と思うとるか、なんていうような事を言わんでもです。自分で自分を宣伝するような事をせんでもです。やはりお父さんは偉いんだ、お父さんは尊いんだという事にです、子供達が見てくれるようになるようなおかげを一つ頂きたい。
まぁ私の一つの理想ですけれども、家内に本気で御理解を頂いて、頂かせれる私になりたい。子供がいよいよお父さんの信心を頂きたいと意欲する。子供達がおかげを頂いてくれるようになる事を願いたい。それにはしっかり朝参り出て来いよ。お広前へ出て来てお話を頂けよというのじゃないね。常日頃結局自分の裏での生活ね。その生活の中にもう当然の事としての、私は生活態度と言った様なものがです改められる。そこからおかげが受けられるんだという事を思うて。
今日から改めてですここんところに私は取り組みたい。私も早う一人前の先生になりたいね。まぁ今日は自分の事を申しましたような積りでございますがです。皆さんその中からです。皆さんの家庭においてもそこんところを頂かせてもらえれる一つの参考にでもなれば有り難い。45節の天は高いからをね。地は低いから地は寛大だから、と私共が甘く見ておるような事はなかろうかという所をです、自分を宣伝すると言った様な事やら。または自分の足元が重うなっておるね。
それはただお詫びの内容というものがあまりにも普通のね。それこそ信心しとってそんな事じゃおかしいと言う様な事を、日々繰り返し詫びておるような事ではです。いよいよの時にですね、いよいよの時におかげが受けられるという確信が薄くなって。そのくらいの私だからとてもおかげは受けられまいと。自分で自分をいわゆる自分の心のいわば角で、自分というものを打つ事になり、自分というものを苦しめる事になる。それでは本当のおかげがスムーズになって来ないと、言う様な事を申しましたですね。
どうぞ。